うつつほろ酔い奇譚

観劇レポ多めの雑記ブログです

メディア/イアソン

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世田谷パブリックシアター入口、『メディア/イアソン』のポスターと共に。


2024年3月12日~31日に世田谷パブリックシアターで上演されている『メディア/イアソン』に足を運びましたので、感想を綴っていきたいと思います。



会場について

公式サイトによると、キャパは約600人。今回初訪問でしたが、客席は3階まであり、馬蹄のような形の空間。このくらいのサイズの会場は舞台との距離が近いのが良いですよね。


 

キャスト

今回、出演者はたった5人(敬称略)。
井上芳雄
南沢奈央
三浦宏規
水野貴以
加茂智里
この人数で2時間(休憩なし)を駆け抜けるってどういうこと?というのが情報解禁時の正直な感想です。



古代ギリシャに関しての知識レベル

ちなみに某は、高校時代の世界史の授業と、趣味で以前、藤村シシン先生の『古代ギリシャのリアル』(実業之日本社)を読んだくらい。

エウリピデスの『メディア』は未読で、「実の子を殺す」センセーショナルな話というあらすじ程度しか知りませんでした。



感想

以下ネタバレを含みますので、ご鑑賞予定の方はご注意ください。


はじまりのシーンは3人の子供から。背後には大きな満月が輝く、幻想的な空間です。会話によると、母はアテナイに、父はどこかに行ってしまったのだそう。でも彼らからは、両親に対する寂しさをそこまで感じませんでした。

けれども、ここで気になる点が1つ。子供たちが2人でしか喋らないのです。もう1人は少し離れたところで体育座り。何か精神を病んでしまっていたりするのかな、そう思って眺めていました。

ここでは終始、水野さん演じる、年の離れた妹がルンルンしていて、とても可愛い~と思っていたら、次のシーンでは一瞬で叔父さんに!あまりの変わりように、同一人物が演じているとは思えません。これは面白そうな舞台になるな、と確信した瞬間でした。




井上さんのお芝居を初めて拝見しましたが、掛け合いのお上手な方というのが第一印象でした。とても自然なのですよね。

様々な媒体における俳優さん・声優さんのインタビューで、「相手の演技を受けてどのように反応するか、というのが大切になってくる」という趣旨のお話を読みますが、井上さんは間の取り方に彼のセンスが光っていると感じました。

見ていて、まるで台本など存在しないかのように、本当にその場で会話が展開していると錯覚するほどの臨場感があったのです。




南沢さんはショートカットのお写真を拝見していたので、最初に登場した時の三つ編み姿は新鮮でした。また、それをナイフで切り落とすシーンは、生まれ育った国を出るという決意と覚悟を象徴しているようで、こちらも歯を食いしばる思いで見ていました。

さらに、部屋での独白シーンは、何と言うか、とても情熱的でした。イアソンとの出会いで芽生えた自らの感情に対する恐れ慄きを感じ取ったのです。

某の体感では、おそらくメディアは誰かと、というよりモノローグ系のセリフを喋っている時間の方が長かったです。通常なら地味になってしまいそうなシーンですが、そこは彼女持ち前の華で、観客が目を逸らせない空気を作り上げていました。




三浦くん演じるメディアの弟、アプシュルトスは、どちらかと言えば格好いい系のキャラクターを担当することが多い、彼の新境地開拓といった役柄に感じました。

頭には月桂冠を付け、常に琴を抱いて、そこに顎を乗せながら喋る姿は、お姉ちゃんにべったりで人懐っこい、まさに「みんなの可愛い弟」といった立ち位置です。

後述するアイエテスと、水野さん演じるメディアの乳兄弟アルゴスの言い合いを含め、スピード感のある展開も多いコルキス編で、まったりとマイペースに喋る彼は、癒やしのような存在でした。




加茂さんは、メディアの父であり、コルキスの王であるアイエテス役が印象深いです。若い女性が演じているとは思えぬしわがれ声で、人の話を聞かない傍若無人ぶりを表現されていました。

何より、アプシュルトスの四肢を集めるシーンは胸に迫るものがありました。

浜辺に流れ着いて打ち上げられた息子の手足を、見覚えはあるけれど、その形では見たことがないはずのものを必死に探し集める姿からは、登場人物たちの不幸の歯車が回り始めた音がしました。




もうひとつ、井上さんの職人技を感じたのは、物語が進んできたころ。

冒頭のイアソンは本当に、叔父に国を追い出され冒険を押し付けられてしまう、弱気な青年という感じでした。

ところが、金羊毛(きんようもう)を無事に手に入れ、アルゴー船で故郷へ戻るシーンあたりから、急に薄っぺらく見えてきたのです(注:褒めています)。我が身可愛さに、手段を選ばない行動を取りそうな空気が漂ってきました。

その後、新たな婚姻を結んだうえでメディアのところを訪れた時には、自分は正しいことをしていて、間違っていて愚かなのはメディアだと言わんばかりの(セリフで近いこと言っていましたけれど(笑))威圧的な態度が全面に出ていました。

この振れ幅を、時に分かりやすくあからさまに、時に掴みどころのない不確かな人間のように自在に操っていました。イアソンを憎めないキャラクターとして演じることを可能にしているのは、井上さん自身の持つ気品なのかもしれません。




三浦くん演じる使いの者、今回の舞台で彼一番の見せ場はここではないでしょうか。流石プロだ、と唸ってしまうほどの長ゼリフ。メディアからの贈り物によって命を落としたイアソンの新しい花嫁と、その父の死に際が鮮明に浮かんできます。

ここでは更に、南沢さんの技が光ります。死亡の報告を受け、ただ「そう」とだけ答えるメディアが、既に我々が知る常識の範疇には存在しないことを教えてくれました。




そして、南沢さんが返り血の付いたお衣装で登場し、子供たちが殺されてしまったということが観客の中での共通認識となります。

某はずっと、夫への復讐のために自らの子供たちを道具のように扱うとは、なんてむごいことをするのだろう、と思っていましたが、他の解釈もあることに気が付きました。

どうせ死ぬ定めなら、敵の手で惨殺されるよりも、せめて自らの手で楽に死なせてあげたいという母なりの愛だと。

そう考えると、殺すという選択肢は親のせいで不幸な運命に巻き込んでしまった尻拭いをしなければ、という義務感から来たものでもあったのかもしれませんね。




メディアとイアソンが舞台から立ち去り、子供たちのシーンになりました。このラストで初めて、加茂さん演じる双子の姉が語り始めます。

なんと、彼女は唯一メディアの手を逃れ、生きていたのです。最初のシーンで他の2人の兄弟と話していなかったのは、もう住む世界が違ってしまっているからだったのですね。

けれど、某には死んでしまった2人の子供の方が楽しそうに見えたのですよね。誰も居なくなってしまった世界で孤独に生きる双子の姉の方が虚無感を抱えているように見受けられました。

生き延びること、あの時に殺されてしまうこと、彼女にとってどちらが良かったのか……

確かに、死ぬ前最後に見るのが、実の母の怒り狂った顔(決意を固めたという意味で無表情、はたまた最後くらいは純粋に子供らへの愛情が勝った結果の笑顔というのも考えられますが)というのは可哀そうな気がしますが、子供が1人で生きていくというのは、いつの時代でも酷な事でしょう。

手を掛けられてしまった子供たち2人は、きっともう全て終わったこととして受け入れているのでしょうかね。寂しい・悲しいといった感情から解放されているようにも見えました。それゆえ、最初のシーンでも楽しそうだったのだと思っています。



終わりに

最小限の舞台装置と大道具のみ、少数精鋭のキャスト陣で回していく舞台は、とても見応えがありました。

登場人物みんなが幸せになれるルートはなかったのかと、つい考えを巡らせてしまう悲劇ならではの終わり方ではありますが、重くずっしりとのしかかる暗さではないので、そういったのが苦手な方でも見やすい部類だと思います。

人名も土地名も聞きなじみのないカタカナが多いので、予備知識がないと細かい部分は「??」となってしまう難しい箇所もあるかとは思いますが、演出と演者の皆さんのお陰でストーリーに置いて行かれることは一切なかったので、どなたも楽しめる作品ではないか、というのが総括です。



最後までお読みいただきありがとうございました。それでは!